ジッドゥ・クリシュナムルティの名言集

2014/03/18


jiddolu・kurishunamuruthi

ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti 1895年3月11日 1986年2月17日)

インド生まれの思想家、一般的な分類としては宗教家・神秘思想家になるが、彼の思想は宗教団体的なものとは真逆の方向性を持っている。二十世紀最高の宗教的覚者の一人であるとする声もある

クリシュナムルティは1895年、南インドに貧しいバラモンの家の子として生まれた。母親は神智学協会の会員であったため、この協会の幹部チャールズ・リードビーターの目に触れる機会に巡り合う。リードビーターは人間のオーラを観る眼、霊視能力の持ち主であったという。リードビーターの目に留まったとき少年クリシュナムルティは泥と垢にまみれたみすぼらしい身なりをしていたが、彼の目には少年が内から発する神々しいオーラが映った。そのあまりのすばらしさに思わず恍惚となったリードビーターは、この少年をひきとろうと言い出す。

  • 瞑想は根であり、幹であり、花であり、そして果実である。~愛の行為とは全的な把握にほかならない。
  • 悲しいことに人は空しさをおおうために所有へのいたずらな努力を重ねるのである。そのような努力から支配欲と自己主張が生まれ、それはさらに空虚な言葉と、過ぎ去って決して戻ることのない物事への様々な追憶を伴うのである。
  • 信念からは決して真実は生まれない。信念は制約的条件づけの結果であり、恐怖の産物であり、あるいは人に慰藉を与える内部的、外部的な権威から生まれる。
  • 他の誰かのようになろうとしたり、理想とする自分を達成しようと努めるのが、全ての矛盾、混乱そして争いの主要な原因の一つである。
  • 瞑想とは、何かをその一部だけでなく全体を完全な注意を払って見つめる心の状態である。
  • 私たちはほとんど独立した思考や感情というものを持ちません。思考や感情が起きるとき、それらは単なる反応で、だからそれは既成のパターンから自由なものではないのです。反応…の中には自由などないからです。
  • 理解すると言う行為こそは宗教的な行為である
  • あらゆる生は昨日の影の中にも、輝かしい明日の希望の中にもなく、現在の中にある。現在に生きるためには、人は過去からも明日からも自由でなければならない。
  • 私たちの困難は、私たちが既知のものを持ちつつ未知のものを望むことです。私たちは既知のものを手放そうと望みません。なぜなら未知のものはあまりに恐ろしく、大きな不安定、不確かさがあるからです。そしてそれが、私たち自身を防護するために、信念で私たち自身を囲って守る理由です。
  • 思考は常に分離的なものであり、見るものと見られるものの間を時間と空間で分けてしまう。
  • 過去を現在に持ち越したり、過去に照らして現在を解釈していては、現在が持っている生きた美しさをとらえられない。
  • 何かになろうとする願望が葛藤の始まりなのです。そしてその願望は、組み込まれたプログラムに従った脳の活動の一部です。
  • 我々は、絶望と希望、恐怖と快楽、愛と憎悪という果てしない対立物の陥穽にはまっているのである。そうした対立物が我々の生を満たし、生の闘いを引き起こすのである。こうした対立物は同じ根から生えている二本の枝であって、根本においては同じものなのである。
  • 自由とは心の状態である。それは何かから自由であるということではなく、自分が今自由であると感じ、すべてを疑い追求し、徹底的に積極的に、そしてたくましく生き、あらゆる形の依存心や隷属状態、服従、受容をかなぐり捨てて生きようとすることである。
  • われわれが沈黙に耳を傾けないのは、われわれの耳が精神のざわめきでいっぱいになっているからである。
  • 正しい生活とは、社会のモラルに従うことではなく、羨望、貪欲、権力の追求など反感や憎悪を生む一切のものから自由になることである。これらからの自由は、意思的活動ではなく自己認識を通じてこれらに気づくことによって生まれる。
  • 我々が内的に依存しているとき、伝統は我々に大きな支配力を及ぼします。そして伝統の線にそって考える精神は、新しいものを発見できません。順応によって、我々は凡庸な模倣者、冷酷な社会という機械の歯車となります。
  • 新たなるものが現れるためには、愛や神、文化あるいは共産党政治局のイデオロギーなど、諸々の表象や言葉の総体としての思考の全構築物を全的に否定しなければならない。新たなるものは古いパターンに体よく収まったりはできないのである。
  • 人生とは関係です。人生とは関係の中における行為です。私が関係を理解しないとき、あるいは関係が混乱しているとき、そのとき私はよりたくさんの意味を求めるのです。
  • 重要なのは人生のゴールが何かではありません。自分の混乱を、みじめさ、恐怖を、そして他のすべてを理解することです。私たちは混乱を理解せずに、ただそれを取り除きたいと思うのです。
  • 我々の問題はどのようにして生と出会うかではなく、どうすれば心が、条件づけと教条、信念でいっぱいになったその心が、自らを自由にすることができるかということです。生と出会えるのは自由な心だけです。
  • 自己放棄は完全な簡素さ―過酷な修行、制裁、規律、服従に基づいて生活する聖職者のそれでなく、衣服や観念、食物、行動のそれでもなく、完全な謙譲の気持ちをもって生活する全的な簡素さの中に実現されるのだ。従って、そこには何一つ獲得成就するものもなく、高所に上るための梯子もない。
  • 現にあるものこそはあるがままの現実であって、それ以外はすべて非現実的である。断片化をもたらすものは現にあるものではなくて、この非現実のものなのである。
  • 心の中で完全な沈黙を守るのだ。それは、あなたが何ものも求めず、何ものも願わず、何ものも追求しない、中心となるものが全く存在しない状態に入ることである。そこに、愛が存在するのである。
  • もしも私たちが内的にみじめで、混乱しており、カオス状態にあるなら、それが投影されて世界となり、社会となるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との関係、私自身と他の人との関係が社会だからです。
  • あるがままのもの―つまり空虚さと内面の不十分さ―を理解し、それとともに生き、完全にそれを理解しきったとき、創造的な「真の実在」と創造的理解力が誕生するのです。
  • 知ろうとする努力はすべて間違った側にあり、あなたが知ったと思ったとたんに、すでに墓穴に入ってしまうのである。「ある」ことは「知る」ことではない。
  • 人と音が別々でなく、音の一部であるときにはじめて、その美しさが感じられるのである。瞑想とはいかなる意志的行為または願望の働きをも交えることなく、あるいはまだ味わったことのない物事の快楽を求めたりすることなく、そのような分離に終止符を打つことである。
  • 真理はそこへ至る道のない土地である(Truth is pathless land)
  • もし私があなたに1つのシステムを教えるほど愚かであり、あなたもまた、そのシステムに従うほど馬鹿であれば、それはただあなたが人真似をし模倣し、そのシステムを受け入れそれに従うだけであり、結局はまた別な権威を自分自身の中に置くことになる。
  • 特別な意見に捉えられた心、あるいは観念、信念、教条の網に掴まえられた心…そのような心には確かに再生はあり得ません。それは生を新たに見ることができません。それらのものが脇にやられ、心が自由であるときだけ、心は生を新たに見ることができるのです。
  • 無知は自己のありようについての理解の欠如です。そしてこの無知は表面的な活動や改善によって一掃することはできません。それはあらゆる関係における自己の働きと反応への不断の気づきによって一掃されるのです。
  • オープンな精神を持つことは学習より重要です。そして私たちは、情報を詰め込むことによってではなく、自分自身の思考と感情に気づくことによって、自分と自分に作用する影響を注意深く観察することによって、他の人たちに耳を傾けることによって、オープンな精神を持つことができるのです。
  • もしも君が、言葉や理知の上ではなく本当に思考の構築物をそっくり否定すれば、おそらく君は新たなるもの―新しい生き方、新しい見方、新しい行為―を発見するだろう。否定こそは最も積極的な行為なのである。
  • 目覚めた精神、内から燃え上がる精神にとっては、どんな種類の働きかけも不必要である。
  • 瞑想は、あらゆる思考、あらゆる感情を自覚することであって、その善悪を断定しないでただ見守り、それと行動を共にすることである。
  • 自己憐憫とは孤独から生まれる心の痛みであり、そのような苦痛が悲しみと呼ばれているのである。
  • 人はどんな荷物もたずさえず、軽やかに、何の努力もせず、あるいはいかなる神殿や記念碑または社会的、宗教的な英雄にも気を取られることなく、ただひとり美と愛をたずさえて旅しなければならない。
  • 知恵は本の中に見出すことはできません。それは蓄積したり、記憶したり、貯めこむことができないものです。知恵は自己の放棄とともにやってきます。オープンな精神を持つことは学習より重要です。
  • その周りに空間を作り出す中心がある限り、愛も美もそこには存在しない。中心もなく周辺もない場合に、愛が存在するのである。そしてあなたが愛するとき、あなたは美である。
  • 他人とは違った人間になり、もっと賢くなり、もっと明晰で利口になろうとすること―これが絶えず思考の追い求めているものなのである。それによって、あなたは深い安心感を見出そうとしているのではないだろうか
  • 観察するものは同時に観察されるものである。
  • 見るためには、あなたは一切の伝統や恐怖、あるいは狡猾な言葉に満ちた思考から自由でなければならない。真理はどこか遠くにあるのではなく、あるがままの現実を見極めることにある。
  • 理知はわれわれ人間の問題を何ひとつ解決することはないであろう
  • 我々は常に観念と行動を分離して考えるが、これは観念が常に過去のものであり、行動が常に現在のものであるからだ。つまり、生きることは常に現在であるからだ。我々は生きることに恐れを抱いており、それ故、観念としての過去は我々にとって重要なものになってくるのだ。
  • 権威は、それが信念や伝統の権威であろうと、あるいは道徳と呼ばれている習慣によるものであろうと、どれも邪悪なのである
  • もし私があなたについてあるイメージを抱き、あなたもまた私についてあるイメージを抱いたとすれば、我々が互いにそのあるがままの姿を見ることができないのは当然である。
  • 厳粛さとは英知の総和であり、それは自己放棄があってはじめて生まれるものであって、決して意志的行為や取捨選択あるいは慎重な計画によっては生まれない。
  • 無である人は幸いなるかな!
  • 選択する人間は混乱しているのです。混乱しているからこそ、選択するのです。もしその人が混乱していなければ、選択する余地はない訳です。混乱している人だけが、なすべき事や、なしてはならない事を選択するのです。明晰で素朴な人間は選択しません。ただあるがままのものがそこにあるだけなのです
  • 自由が存するところにはエネルギーが存し、自由が存する場合には、何事を行なっても間違いを犯すことはない。自由が存する場合は、行為の善悪ということはない。
  • 愛は無名であり、それゆえ暴力を生まない。快楽においては願望と意志がその動因であり、それゆえに快楽は暴力を生むのである。
  • 言葉なき美に出会うために精神がしなければならない旅こそは瞑想に他ならない。
  • もし人が恐怖から自由になりたいのなら、人は時間から自由にならねばなりません。もし時間がなかったら、人は何の恐怖も抱かないでしょう。それがお分かりでしょうか?もしも明日がなく、今だけしかなかったら、思考の運動としての恐怖は終わるのです。
  • “真理”は、自己の思考が完全に終焉したときに、向こうからやってくるものである
  • 思考は時間です。思考は記憶、知識、経験であり、知識と経験が脳に記憶として貯えられているのです。そして、それは時間の結果です。知識の増殖、知識の広がり、知識の深さは時間のものです。
  • 宗教的な生き方についてあれこれ思いめぐらすことでなく、快楽や不幸、あるいは人間を取り囲んでいるあらゆる条件を曇りなく見ることが、何よりも大切なのである。
  • 今日という日の瞑想は、新たな目覚めであり、善良なもののもつ美への新たな開花といえる。
  • 善良であることと善良になることとは別々の事柄である。善性の開花とは善良になることではない。善良になるというのは、善良であることを否定することである。「よりよくなる」という考え方は、あるがままの姿を腐敗させてしまうのである。
  • 思考というものはすべて自由ではありえず、常に古い存在であることを十分に理解したときに生まれる沈黙は、瞑想者がそこに存在しない瞑想である。それは心が過去から完全に脱却したからである。
  • 所有物は、われわれがそれらを所有する以上にわれわれを所有してしまう。城、家、絵画、書物、知識―こうしたものが人間の存在よりもはるかに大きな重要性を帯びてくるのである。
  • 行動に急ぐな。何が起こっているか、しっかり観察せよ。(Do nothing, see what happens.)
  • 否定を通じて肯定的な状態が現れる。
  • 宗教的な心は力強い愛の奔流に他ならない。そして分離の壁を知らないのはそのような愛なのである。そのような愛の心にとっては、遠近は消え去り、一と多の区別もなく、その中では一切の区別に終止符が打たれるのである。
  • 孤独は、その恐怖や苦痛とともに、孤立であり、自我の避けがたい行為である。
  • 世界はあなた自身の延長であり、世界は複製され、増幅されたあなた自身なのです。
  • 思考や善行によっては愛は生まれない。思考の全過程を否定することから行為の美が広がり、それがすなわち愛なのである。それがなければ真理の祝福はない
  • 分離的行為は個人、集団、国家の別を問わず、いずれも自殺行為なのである。
  • 「私は幸福だ」というとき、その人間は過ぎ去ったことの記憶の中に生きているのだ。
  • 支配と競争と戦争の文化を築き上げたのは思考に他ならないというのに、その同じ思考が秩序と平和を希求しているのである。しかしどうあがいても、思考は決して秩序と平和を見出すことはできないであろう。愛が姿を現すためには、思考が沈黙しなければならない。
  • 指導者もいない、教導者もいない、あなたに何をなすべきか教えてくれる人は誰もいない。この野蛮で狂った異常な世界には、あなた一人しかいないのだ。
  • 日々死ぬこと、数多くの昨日に対して、そしてたった今過ぎ去った瞬間に対して死ぬことがいかに必要であることか!死なしにはいかなる更新もなく、死なしにはいかなる創造もない。
  • 原則や理想を持たないで生きるということは、あるがままの現実と刻々に直面して生きることである。あるがままのものに実際に直面すること~すなわち言葉や過去の連想や記憶を通さずに全的にそれに触れ、それにじかに接すること~が正直ということである。
  • けれども、恐怖、時間、あるいはめざす目的を成就したり、めざす何かになろうとする果てしない願望などは、いずれも思考の産物に他ならない。
  • もしも自分自身の生き方を観察するなら、あなたは人に従う以外の何もしていないことがわかるでしょう。この従属システムが、私たちが「生きること」と呼んでいるものです。人生は今、何の意味も持たないのです。意味はあなたがこうした権威をすべて脇にどけてしまう時にのみやってきます。
  • あなたが何かになろうとしている限り、あなたが何かにとりつかれている限り、不可避的な葛藤、混乱、つのりゆく不幸があるだろう。
  • 思考は常に古いものであって、決して新たではありえない。
  • 愚にもつかない信念や区別に取り囲まれた今のような生き方のすべて、事務所や工場で費やされる生活の全くの無意味性を、あなたは正面から見据えなければならない。そのような生活の終わりに死が訪れる。あなたはこのような混乱のすべてを曇りなく見抜かなければならないのである。
  • 普通考えられている意味の規律とは、愚にもつかない特定の政治的、社会的あるいは宗教的な是非や賞罰の決まりに順応することであって、順応とは模倣、抑圧、あるいは現実を何らかのかたちで歪曲しようとすることである。
  • あなたがそれ(瞑想)を求めたり、あるいはその方法をあれこれ思案したりすれば、その方法自体がさらにあなたを制約するだけでなく、あなたを縛っている現在の制約をいたずらに強固にしてしまうことであろう。瞑想とは思考の全構造を文字通り否定し去ることである。
  • 思考は、心地よい、刺激的な、記憶しがいのある出来事を記録し、それが貯えられ、維持され、固執され、さらに思考がそれを未来に投影して、それを追い求めるのです。
  • 何一つ永久的なものがないということを発見することは心の自由にとってなにより重要なことである。その事実を発見したとき、はじめて大きな喜びを生じるのである。
  • 真理は決して過去にはない。~真理は現に生きたものであって、時間の領域にはない。
  • 精神がいかなる解答も結論も求めず、抵抗も回避もせずに静止した時、その時にのみ新生が起こりうるのです。なぜならその時、精神は真理であるものを知ることが出来るからです。そしてあなたを解放するのはこの真理であって、自由になろうとするあなたの努力ではないのです。
  • やってみるとか、最善を尽くすといったことは、まったく無意味なのだ。問題は、実行するか、実行しないか、どちらか一つである。
  • 人間共通の貪欲、憎悪、支配欲というようなものにおいてわれわれは結びついており、そうした暴力性がわれわれの生活を取り巻いている文化や社会を築きあげている。
  • 人は自分自身を理解することなしには世界の情況を変化させることに着手することはできません。もしあなたがそれを見るなら、その時即座にあなたの内部に、完全な革命が起こるのです。
  • 神を愛するという時、それは何を意味するだろうか。それはあなたの想像力が生み出したものであり、あなたが神聖にして高貴なものとして考えている立派な尊敬すべき格好をしたあなた自身を映し出したものを愛しているということである。だから「神を愛している」ということは、全く無意味なことである
  • 愛とは何かを知っているのは、完全な自己放棄をもって木や星や光り輝く川の水を見る心だけであり、そのあるがままの姿を見るとき、我々の心には愛が生まれるのだ。
  • 瞑想とは時間を超越することであり、時間とは何かの成就をめざして思考が旅する距離である。
  • 真理に到達するための道などない。そこがまた、真理の真理たるゆえんであり、真理は生きた存在なのである。
  • もし何らかの刺激に依存すれば、その刺激によって心は鈍感な無感覚なものになってしまう。
  • 昨日を幾千集めても、新しい一日は生まれないのである。
  • 西洋社会は一定の宗教的シンボル、図像、儀式を信じ、また東洋の世界も似たり寄ったりのことをしていますが、しかしそういった全ての奥には同じ恐怖、快楽の追求、あるいは悲しみ、苦痛、出世欲、あれこれのものへの願望・欲望が渦巻いているのです。そういった全ては、全人類共通の運動なのです
  • 終止符を打つことがはじまりであり、そのはじまりが第一歩であり、そしてその第一歩が唯一のステップなのである。
  • 敵と味方はともに我々の思考と行動の産物です。我々は敵の創出に責任があり、だから我々自身の思考と行動に気づくことのほうが、敵や味方と関わるよりも重要なのです。というのも、正しい思考は分割を終わらせるからです。愛は敵と味方を超越します。
  • 瞑想には想像と思考の入る余地はない。想像と思考は束縛に行き着くが、瞑想は自由をもたらす。瞑想は時間からの自由である。観察する者、経験する者、考える者、これらの正体は時間に他ならず、時間とは思考である。瞑想とは時間の様々な活動を超越することである。
  • 瞑想のさなかの精神は日常たゆむことなく、生の運動をそのすべての関係のなかに、言葉によらず、また批判や意見を混ずることなく、ひたすら見、そして聞く。
  • 見ることが即行なうことであり、両者は別々ではない。そして見ることは常に新たであり、したがって行なうことも常に新たである。それゆえすべての反応について見ることは、絶えず新たなものをもたらす。それがいわゆる自発性である。
  • 世間で認められた道徳は市民的体面の道徳であり、それゆえそのようなすべての道徳を否定することこそ、真に道徳的なのである
  • 我々人間は皆、夢中になれる何らかの玩具を持っている。その玩具がある時は我々は平静でいられると考えている。だが、学問や文学その他の知的活動に専念する時には、その玩具はただ心を夢中にさせるだけであって、心を真に平静にすることはできない。
  • 瞑想は言葉の終わったところからはじまる。思考の器である言葉によっては沈黙は生まれない。沈黙から湧き上がる行為は言葉から生まれる行為とは全く異質である。瞑想とはあらゆる表象やイメージ、記憶から、精神を自由にすることである。
  • すべての思考は明らかに条件づけられています。自由な思考などというものはありません。思考は決して自由たりえず、それは私たちの条件づけの、私たちがもつ背景、文化、風土、社会的、経済的、政治的背景から生み出されたものです。
  • 混乱から生まれた行動は、さらにまた次の混乱を生み出す。
  • 行為はあるがままの現実から離れたものではない。そのように分離させるところから葛藤と醜悪さが生まれるのである。このような分離がなければ、生きることそれ自体が愛の行為である。
  • あなたは自分自身で歩み、ただひとりで旅し、その道程においては、あなた自身が自らの師であり弟子でなければならない。
  • 政治的、宗教的、経済的に、いかに入念に制度を築こうと、私たちの内なる意識が全面的に秩序だっていないかぎり、その無秩序は、常に外部を圧倒してしまうことでしょう。
  • 人は全的にアウトサイダーでなければならない
  • 信仰や国籍や伝統によって自らを他と切り離してしまうところに、暴力が育つ母胎が生まれる。
  • 自分自身を知るということ―この大切なことを私たち人間は無視しがちです。自分自身を知ることこそ、何かを築きあげることができる唯一の土台なのです。
  • 「孤独」とは文字通り、何者にも染まらず、天真らんまんで自由であり、そうしてばらばらではなく一個の全体として、凛としてそこにあることである。
  • 意見を養い、それを鋭利で堅固なものにしていくことはできる。そして我々のほとんどの行為はこの好悪原理に基づいている。経験と知識は堅固にされ、それは行為に現れる。けれども、そのような行為は人と人とを互いに分かつものとなる。意見や信念こそは、在るがままにものを見ることを妨げるのである
  • 信念は恐怖や伝統から生まれる。二千年あるいは一万年にわたるプロパガンダこそは、儀式、教義、信念といったものに包まれた、宗教的な言葉の構造の正体である。そのとき言葉はきわめて重要になり、そうした言葉の反復が、信じやすい人々を催眠状態に陥らせるのである。
  • 私たちは方式や、方式に基づいた観念や価値観の変革によって、社会の改革を期待しています。そして実は「あなた」と「私」が社会を作っていることや、私たちの日頃の生活態度によって、混乱や秩序が生まれるのだということをわすれてしまっているのです。
  • 我々が悟らねばならないのは、自分が環境によって条件づけられているだけではなく、我々が他でもないその環境だということ、自分がそれと分離したものではないということだ。我々の思考と反応は、我々がその一部であるところの社会が我々に強いた価値観によって、条件づけられているのだ。
  • 生はたえず動いている。生は、多くの複雑で素早く変化する問題を内包しながら、決して静止することがなく、毎日毎分、新鮮なアプローチを要求している。だから、私たちがこの生に出会うとき、そこには条件付けられ固定化された心と、たえず動いてやまない生との間の絶え間ない葛藤があるのだ。
  • 現在に生きるためには、精神は昨日の記憶や輝かしい明日への希望によって分断されてはならない。精神は明日も昨日も持ってはならないのである。これは何ら詩的な言辞ではなく、ありのままの事実である。
  • あなたが何も知らない向こう岸、理知にたけた思考によっては補足できない別の次元から歩き始めてみたまえ。
  • 本当は明日などというものはないのであって、明日とは思考が自分の浅薄な野心や満足を実現するために生み出したものなのである。思考は数多くの明日を生み出すが、本当は明日などない。明日に対して死ぬことは、今日を全的に生きることである。そうすればあなたの存在全体が変容をとげることであろう
  • 何もすることはない。ただ心を開いて静かに耳を傾け、あの花の美しさを見つめたまえ。
  • 善良であるというのは今現在におけることである。それに対して、善良になるというのは未来の事柄であって、それは信念、あるいは比較と時間の公式にとらわれた精神が考え出したものなのである。比較計量があるところでは真の善性は姿を消してしまうのである。
  • 「私」と「他の人」との関係が社会を作っている以上、根本的に「私自身」を変えなければ、社会の本質的機能の変換もありえないのだ。
  • 瞑想がもたらす死は、新たなるものの永生である。
  • 自由は、いかなる種類の安定も持たないことにあるのです。
  • 結局のところ、あなたは何なのですか?あなたは単なる思考にすぎません。あなたは単なる一個の観念なのです。その観念を取り除きなさい。その思考を取り除いてみなさい。
  • 沈黙はあらゆるものの本源である。
  • 何も教えられてはいない。あなた自身が自分の目で見たのである。ひたすら見ることがあなたに示したのである。言うなれば、そのように見ること自体があなたの師なのである。
  • 記憶をもたらし、それに永続性を付与し、日夜記憶を養い、それに固執してきたのはほかならぬ思考である。けれども、これこそが最も大きな迷妄なのである。
  • 日々の生活と瞑想、宗教生活と世俗の生活との間に区別はない。そのような区別は見る者が時間に縛られているときだけ生じる。そしてそのような区別の中に混乱や不幸が生まれる―それが我々の社会の実情なのである。
  • 思考を超越したものは、天真らんまんさであって、それは思考が常に古いものである以上、どうあがいても思考によってはついに触れえないものである。
  • あるがままの自分とともに生きるとき、人間は心の平和を持つことができる。
  • 生きることの意味を十全に理解するには、私たちは自分のこんがらがった日々の苦しみを理解しなければなりません。私たちはそれから逃れることはできないのです。私たちが暮らしている社会は、私たちめいめいによって理解されなければなりません…誰か哲学者とか、教師とか、グルによってではなくて…
  • 内なる慰めなどというものがあって、誰か他人がそれをあなたに与えられるとか、自分自身で見つけ出せるなどと考えるのは、多くの人々が抱いている幻想である。そのようなものは実際には存在していない。
  • 思考には常に限界がある。瞑想のさなかにある精神は無辺際である。
  • このように、時間の永続性があり、また最後には到達される真理という観念に対して思考が付与した永遠性がある。
  • 安定志向こそは実際には無秩序の原因なのである。自分のなかで増大しつつある無秩序や混乱を目のあたりにして、あなたはそれをすっかり終わらせようと考えるようになる。
  • 執着のあるところに愛はなく、依存があるところには恐怖がある。
  • 知識は常に不完全なもので、知識から生まれる思考はすべて限定され、部分的であり、決して自由ではないのです。従って思考の自由というものはありません。
  • 社会は「あなた」と「私」との関係が生み出したものなのです。つまり、社会は私たち自身の内部の心的状態を外部に投影したものに他ならないのです。ですから「あなた」と「私」がお互いに理解していなければ、単なる外部―内部の投影されたもの―の変換は全く無意味なのです。
  • 教育や社会は、われわれを戦争に送り出し、われわれにとってかけがえのない美や心の優しさ、喜びの気持ちといったものをことごとく破壊しているのである。
  • 既知ではなく未知のほうからはじめなさい。
  • われわれの社会自体の道徳は実際には不道徳に他ならず、それゆえ社会も無秩序なのである。
  • あなたが食べている時は、ただ食べなさい。散歩に出かけている時は、ただ散歩しなさい。「私は何か他のことをしなければならない」と言わないように。その行為に完全な注意を払いなさい。
  • 時間は、ただ我々を欺いているだけである。時間は過去・現在・未来の三つに分割される一つの動きである。そして、時間を分割する限り、人間は常に争いと不一致に苦しまなければならない。
  • 快楽が苦痛に変わるのは、快楽を反復して味わい永続させようと努めるからである。


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